農民美術のあゆみ



平成11年12月に行われた農民美術80周年記念祝賀会に於いて、二代目中村実が講演した内容の抜粋をどうぞ。




 山本鼎
 山本鼎

 農民美術は、洋画家山本鼎先生(明治十五〜昭和二十一)がヨーロッパ留学中、第一次世界大戦に遭遇いたし大正五年に帰国の途中ロシアのモスクワに約半年程滞在したのであります。その中でロシアの児童画、及び農民美術を見聞し深い感銘を覚えたのであります。

 当時、日本での絵画教育は臨本教育であり、国定教科書に定められたお手本を如何に真似をするかにありましたが、山本鼎の考えは、「元来美術教育というものは押し付けるものではなく、直接子供の目に映った純粋なものを描くべきだ」というごく自然のものでありました。

 一方、農民美術は個性豊かな木彫工芸品を生み出すロシアの国民性も相俟って、農民の節高い指先から生まれる素晴らしい作品に接し、感受性の強い山本鼎の目を捕らえたのであります。

 郷里である信州も農閑期が長く、農村生活は疲弊の道を辿り、青年達は無味乾燥な生活を余儀なくされていたのであります。山本鼎は考え、全国の大半を占める農村生活を豊かなものにしなければ、その国の繁栄は無いと悟り、鼎の脳裏には、自由画運動と農民美術運動の二粒の種子が芽生えたのであります。

 「日本全国の農民諸君の手から産業美術の一大種族を引き出そう」という実に遠大な計画でもありました。

 当時、信越線の大屋は、将来松本行きの分岐点として繁栄する街になるとのことで、山本鼎の父親は元来愛知県岡崎の出身ではありますが、小県郡神川村大屋に山本医院を開業していたのであります。しかし、当時よりこの地方は政治力が弱く、実現には至らなかったのであります。そのような関係で、山本鼎は両親の住む大屋において、ヨーロッパよりの旅装を解き、二つの運動を展開して行くのでありました。

 当時、神川村には、山本鼎の理念に共鳴し、表裏一体の惜しみない協力者がいたのであります。その人の名は金井正氏(明治十九〜昭和三十)。山本鼎より四歳年下ではありますが、農村青年には希にみる学識者であり、特にギリシャ哲学にも造詣が深い、学者肌の青年でありました。家は信濃国分寺の膝元にあり、家業は蚕種業を営み、代々の資産家でもありました。山本鼎の農民美術運動に物心両面より協力を施し、山本鼎を奮い立たせたのであります。当時の金額で二万円(家が四十軒位建てられる金額)という巨額を拠出されていたことも記されています。後に金井正は日支事変から大東亜戦争の渦中八年間、神川村長を務め指導力では県下屈指であり、村民の信望を集めていました。

 二人は農民美術の種子を温め、スタートへ向かって万全なる準備を進めていたのでありました。

 大正七年、山本鼎は神川小学校に於いて、「自由画のすすめ」の講演会を行い、斬新な内容と熱意に人々が応え、翌年春、神川小学校に於いて県下学童より寄せられた自由画展を開催、予想外の成果を収めることが出来たのであります。この成功を土台に、二つ目の種子である農民美術運動へ向かっての意気込みが、加速して行くのでありました。大正八年秋、山本鼎、金井正連名による農民美術建業の趣意書が神川村青年子女に配られ、十二月一日より練習所が開催される運びになったのであります。しかし、応募者は神川村の養蚕農家の青年、中村實ただ一人でしかなく開所もおぼつかず、中村實は友人三名を勧誘、四名を以って、大正八年十二月五日神川小学校の玄関に、「農民美術練習所」の真新しい看板が掲げられ、日本での農民美術が誕生したのであります。

 当時の社会では、自由、あるいは運動という言葉さえ禁句であり、官憲の標的にされる時代でありましたが、神川小学校長岡崎袈裟男、村長尾崎彦四郎等の英断により学校の教室が練習所に充てられていました。

 東京より招いた講師、彫刻家の村山圭次、画家の山崎省三等の許で練習生は、鍬を持つ手に鑿を持ち希望と不安の交錯する日々を過ごすのでありました。この頃女子部は適当な講師が定まらず、開講には至らなかったのであります。

 練習生の初めて作った作品を翌年五月、日本橋の三越本店に於いて展示即売会を開催、日本で初めて催された土の香り漂う木片人形(風俗人形)が、都会人の目を捕らえずにはいなかったのであり、全品売約となり、山本鼎はじめ関係者一同は意気揚々と、来年度に向かってのステップも約束されたのであります。二年目には、練習所は小学校から金井正の蚕室に移されていました。

 やがて大正十一年には大屋の月夜平に専用の蒼い工房が建設され、さらに大正十二年には、大屋駅東の高台の山本医院に隣接する場所に、北欧風なショウシャな建物「日本農民美術研究所」が建てられるに至っています。新たに倉田白羊を教育部主任として迎え、研究所の活動は充実の度を加えて参りました。この頃には女子部も開講となり、内部の雰囲気は華やかさを増し男女共学の先端を行っていたのであります。

 最初、山本鼎の自由画教育を含める二つの運動に、頑なな態度を示していた文部省も、諸々の実績にほだされて、時の文部次官、南弘も研究所を視察されています。財政面についても、岩崎財閥よりの援助もあったと云われています。その後各地において講習会を開催、大正十三年には白馬山麓の北城村、下伊那の鼎町等でも開かれています。木彫、染色など幅広い講習目録を作り、農村副業を奨励するよう県副業課に斡旋を依頼、県下五十二箇所、県外は北は樺太から、南は鹿児島まで全国百余箇所で講習会が開かれ、神川村から発信した農民美術の一筋の小さな炎が、自由画運動と共に燎原の火の如く全国に燃え広がったのであります。

 大正十四年には、農商務省より初めて補助金が交付され、政務次官、石黒忠篤が研究所を訪れたのを機に、事業は拡大の一途を辿るようになり、農閑期だけの製作では需要に追いつかず、昭和に入ってからは、通年の専業製作者を育て、更に農美生産組合の組織を強化、東京には生産部の出張所を置き対応出来る態勢を整えたのであります。当初は北欧及びロシアの模倣から始まった農民美術も、次第に日本の風土性豊かな作品を作ろうとし、更に都会需要者の動向にも応えられる幅広い作品にも目を向けられるようになりました。

 昭和四年には木彫、染色等に併せて神科地区では緬羊を飼育し、ホームスパンの講習会も開かれ、農村副業の新生面にも目を向けられていました。このように、さまざまの変遷を重ねて参りました農民美術も、昭和六年には満州事変が勃発、日本も風雲急を告げ、農山村の余剰人口は軍需産業に吸収され、一億総動員時代に突入するのでありました。昭和九年には国の補助金も打ち切られ、一部の生産組合を残して解散同様になってしまったのであります。続いて昭和十四年には、夢と希望を託した「日本農民美術研究所」も自然閉鎖となり、建物は明治乳業に買収されて牧場の畜舎と化してしまいました。昭和十六年には、第二次大戦の激動期に入り、ごく一部の工人が農民美術の灯火を守り続けるのみで、生産活動は停止を余儀なくされたのであります。

 昭和二十年終戦後は、神川村を中心とする上小地方の生産者たちは、食糧増産の傍ら再び生産活動を開始し、県当局の協力もあって、長野県農美生産組合を復活させたのであります。

 しかし、当初全国に広がっていた他の生産組合は、長い戦時体制により空洞化され、再燃させることが出来なかったのであります。

 昭和二十一年十月八日には、農民美術の生みの親、山本鼎は上田の地において六十四歳の生涯を閉じられたのでありますが、二粒の種の成長を見守り、且つ懸念されつつ往生されたことと思います。

 昭和三十年より三十六年まで、県の特産課の肝いりで後継者育成のため、技能者養成制度が採用され、県下より夢多い青少年が組合員の工房に委嘱され、三〜五年の修行を収められ、その後各地に於いて生産活動に精進致しております。

 昭和三十三年、練習所一期生の中村實が発起人となり、神川村の同志十一名を以って、山本鼎の不朽の功績を未来永劫に伝えるため、記念館建設の狼煙をあげ山本鼎記念館設立実行委員会を結成、上田市長 堀込義雄を委員長とし、四年の歳月を経て、昭和三十七年十月八日上田城址公園内に竣工を見るに至りました。山本鼎の残された各資料を展示すると共に、生命力のある記念館として農民美術、絵画、版画等の講習会も開かれ地方文化の拠点とし、なお農民美術の殿堂としても大きな役割を果たしています。

 昭和四十四年農民美術発祥五十周年の頃には、三十九軒の生産者が活躍致し、県内の特産品として面目躍如たる地位を築いたのであります。生産品目も多種多様、喫煙具、食卓用品、文房具、装身具、壁面装飾品、電気スタンド、木片人形、オルゴール等々それぞれ個性に見合った物を作り活況を呈したのであり尚、将来を嘱望された若い生産者は、若実会を結成、新しい時代に即応する、農民美術の開発に意を注いだのであります。

 昭和五十三年には、農民美術発祥の地、神川小学校校庭に、若き頃山本鼎と志を共にした、中川一政画伯揮毫による、「山本鼎先生顕彰碑」が建立されました。山本鼎の著作の中から「自分が直接感じたものが尊い、そこから種々のものが生まれてくるものでなければならない」この言葉は八十年前、山本鼎が神川の地において、二粒の種子を蒔かれたときの真髄であり、学校教育の要であると思います。

 昭和五十七年には、伝統工芸品産業の育成を目的とする指定制度が設けられ、長野県知事指定の伝統的工芸品の指定を受けると共に、地場産業の振興のため県の補助事業として、各種展示会に力を注いで参りました。

昭和五十八年長野県民文化会館竣工に伴い、県教委の依頼により会館の大ホール、ホワイエに、会員の合同制作による大型パネル(四米×一.五米)の信州賛歌が掲げられ燦然と輝いております。

 時代は平成に移り、匠の里モデル工房整備事業が制定され、当業界においても数名の会員が恩恵に浴し、地場産業の発展に寄与しております。

 今日ここで過ぎし八十年を回顧しますとき、日本も未曾有の激動期に見舞われ、紆余曲折の中にも国を始め、県当局並びに関係市町村、その他大勢のお力添えを賜り今日の地位を確保するに至りました。

今後私達に課せられた責務としましては、山本鼎先生はじめ多くの先輩諸氏の残された足跡を風化させないよう、百年に向かって精進を重ねることが肝要かと思います。


平成十一年十二月五日
農民美術発祥八十周年
長野県農民美術連合会


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