老人介護雑誌「やさしい手」 創刊五周年記念介護体験記 1席入選(1994年)

    **あるがままの介護を
   

 
 
頚椎損傷により寝たきりになった義母を介護して五年になります。
肩から下が全く麻痺しているのに、入院も三ヶ月を過ぎる頃から退院の話が出てきました。 尿カテーテルをつけているし、決まって飲む薬のほか症状に応じて加減する薬もあり、体位交換すら看護婦さんの やるのをこわごわ見ているだけでしたので、家に帰れば義母の命が私の判断にかかるのかと思うと、恐ろしいほど不安でした。
 また、仕事(塾)は続けられるのか、趣味も旅行もみんな諦めなければならないのかという不安もありました。
 リハビリ病院への転院も考えましたが、回復の見込みは無いということでした。 また、義父は自分が看るから連れて帰りたいと言うし、家族も遠い病院での24時間の付き添いで疲れが溜まっていたし、本人が帰りたがっていたので退院の方向で考えざるをえませんでした。 
 それでも、私は最低三つの条件が整わなければ無理だと考え、ひとつずつチェックしていきました。 
 

    
 
まず一つ目は移動入浴が受けられること。村では業者委託を考慮中という事だったので、退院までに開始するように頼んできました。
 二つ目は、訪問看護をしてもらえること。しかし整形外科では前例が無く、村にも訪問介護の制度はまだ出来ていませんでした。結局、保健婦さんの骨折りで病院の健康管理部と連絡が取れ、訪問してもらえることになりました。
  三つ目は、何かあったとき、病院がすぐ対応してくれるlこと。これも健康管理部ですぐ来てくれると約束してもらえました。
 加えて、村の開業医に紹介状も書いてもらい、カテーテルの異常や、臨時の交換はそこの看護婦さんにやってもらえるように頼みました。

 
   
次は家の準備でした。日当たりが良く呼んだとき聞こえるように、居間の近くの部屋を療養室としました。そこは和室だったので板張りにしようと思い、住宅改造の補助を申請に行きましたが、去年の人の分がまだだとか、いろいろ言われ、諦めました。障害者になるのを予測して申請しないと間に合わないではないかと割り切れない思いでしたが、ベッドだけは借りる事が出来ました。
 介護の面では、病院で義父が拘縮防止のリハビリを習い、私は膀胱洗浄を習いました。代わりが居なくては困るので義妹にも習ってもらいました。

  
  こうして少しずつ退院準備をしていた矢先、同居している叔母(義父の妹でリウマチのため障害2級)が尻餅 ついて大腿骨を骨折し、義母の隣りのベッドに1ヶ月あまり入院するというおまけまでついてしまいました。
 結局、義母は入院6ヶ月で退院となり、その後は胃潰瘍やら何やらで、数回の入院を繰り返しながら現在に至っています。
 よく「子育ては自分育て」といわれますが、5年間の介護をとおして、「介護も自分育て」だと痛感しています。

  
 在宅介護の基本として考えたことは、家に病人や障害者がいることは、赤ん坊がいるのと同様、当たり前だという事。 だから、家族が犠牲となって我慢するという非常態勢をとらないということです。
 我家では義父が「農業より楽だから」と付いていてくれたこともありますが、「仕事も趣味も続けられる介護」を目指し、それ以上の事は助けてもらうことにしました。 そのため、利用できる制度はどんどん利用し、無いものは要求してきました。
 移動入浴は退院に間に合うように始めてもらいました。2年目からは月2回に増やしてもらったのですが、そのためには自費で一回一万五千円できてもらったり、村会議員に頼んだり必要性をアピールしました。

  現在は、病院から月一回の往診と週一回の訪問看護があります。
村からは、毎週介護指導員とヘルパー、保健婦さんも時々顔を出してくれます。最近は叔母に痴呆の症状も現れ、義父も85歳で去年胆石の手術をした後でもあり、三人がお世話になっています。
「家族でよくやっているから、来ても何もようが無いね。」と言われますが、お年寄りにとって「どうですか」と声をかけられることはどんなに嬉しいことか。また私にとっても、他人が出入りすることで惰性に流れず、介護水準を保つことにもなります。
 最近はショートステイも利用してみたり、週一回のデイサービスにも行き始めました。

 
  また、介護を前向きにとらえ、どうせなら介護ベテランになろうと、就労のための介護講習 (百時間)を受けたカテーテルの交換も一年目から自分でやっています。本、テレビ、講演会などからもいろいろ学べました。
 また、介護者の声を村に反映させたり、励ましあうために会を作ろうとしたのですが、集まるのは 難しいので、「ふれあい通信」というのを隔月で発行しました。これは筋ジストロフィーの男性を編集長に保健婦さんと私が編集委員になり、情報や、体験談、文藝欄などを設けたB4版裏表のささやかなものでした。

 
 また私は週に一度英会話に通っています。この日は昼食の支度のために有料でヘルパーを頼んだこともありましたが、現在は近くの住む義姉に来てもらっています。田舎ゆえ、昼間から英会話に行くこと自体気がひけるのに、小姑に頼んでいくのを見てみな驚いているに違いありません。でも、嫁が犠牲にならない介護の一つのあり方を、近所の若い嫁さんたちに見てもらいたいという気負いもあります。

 
 こうして、衣食住医のケアはほぼ順調にきていますが、ふと、考えることがありました。
これだけ大勢の人に支えられている命、義母や、叔母が執着しているこれから先の命がどんな意義をもつのか本人はどんな意味を見出そうとしているのかと。

たまたま、英会話の先生がユダヤ人のカウンセラーだったので相談した所、邦訳されているかどうか分からないがと、エリザベス・キュブラ・ロスの本「The Death and Dying」を教えてくれたのです。
 日本語版「死ぬ瞬間」というその本をきっかけに、生と死をめぐる様々な本を読み、友達と話あったりしながら、関心は仏教の教えにまで至り、介護の問題が自分自身の生き方を考えることにもなりました。
 「こだわらず、あるがままを受け入れる。命の意味なんか考えなくていい。」今の時点ではそんなふうに考えています。

  
  三人の息子のうち二人はまだ学生です。仕事、子育て、趣味、地域活動(母親グループ)、介護、どれも切り捨てられません。
現在は村の在宅福祉ボランティアを組織するための活動に取り組んでいる所です。
いい死を迎えるために、こだわらずさわやかに生きていこうと思います。死は一瞬でなく、毎日dyingなのですから。

入選の通知が来てから半年後、賞金で買ったテレビや血圧計も一度も使わないまま
桜の満開の季節に義母は亡くなりました。
義母の介護や亡くなったときのことを拙い短歌に読みました。


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