平成272

Furufune

諏訪部の歴史と史跡

諏訪部の昔の様子と史跡について諸資料、原町問屋日記などを基にまとめてみた。歴史を振り返ってみるのも一考だと思う。

 

字堺図

 

1諏訪部の歴史

2諏訪部村名の変遷

3史跡

1)諏訪泉神社 神明宮 

2)境内の石碑・ほらが石・庚申塔・常夜燈・二十三夜塔・道祖神

4津島神社

4日理の驛

5千曲川越しの記録 ・江戸時代 ・明治時代 ・昭和時代

 

1諏訪部の歴史(江戸時代まで)

・和明抄(百科事典)931938 に「信濃国小縣郡須波郷越上」とある

・延喜式(平安後期)に日理驛(わたりのうまや)の記述がある

日理驛 延喜式巻第二十八 兵部省

東山道信濃国 驛馬 □。□。錦織。浦野各十五疋。日理。清水各十疋。□。□。

(延喜式は平安時代中期に編纂された格式(法令の施行規則)で905(延喜五年)醍醐天皇が藤原時平に命じ927(延長五年)22年をかけ漸く完成,奏上。  その後も修訂が加えられ四十年後の967(康保4年)に施行された。)

900年代~1500年代空白
1506(永正三年)洪水のため古屋敷から諏訪之郷に移る (信濃国小県年表上小郷土史研究会土研究会 上野尚志)
1507(永正四年) 千曲川大洪水 諏訪部河原、千曲川となり諏訪部河原となる。中之条村神職上條氏の書
1578(天正六年)下諏訪春宮一御柱造宮帳に常田庄落合分合籾拾壱俵九升
1583(天正十一年)上田城築城、
1600初め、城囲八邑(村) 踏入・常田・房山・鎌原・西脇・生塚・諏訪部・秋和を配置
1623(元和9年)年貢名寄帳、村、職業、庄屋、兵農分離 身分制度の始まり
1706(寶永三年)信濃国小縣郡諏訪部村指出帳(抜粋)を提出

 

 

信濃国小縣郡諏訪部村指出帳

諏訪部村  信濃国小縣郡諏訪部村

本石高   一、御水帳所持不仕候故、石高記不申候

田 畑     六町六畝一八歩

家 数     七拾七軒

切起石高    四拾貮石六斗壹升

用水堰   一、用水堰 壹ヶ所 上塩尻村、秋和村、すは部村 三ヶ

村寄合但シ水入口堀川原より入り申候、入口

悪敷、毎年うまり申候付奉願、少々の普請二

塩尻組中より人足被下候。大破損之節

上田御領分人足被仰付被下候

筑摩川   一、筑摩川川上常田村、川下秋和村ニ御座候、

当村より南之方流申候

橋     一、筑摩川橋  三橋

諏訪部橋  一、諏訪へ橋落申候節すわへより川向中之条村へ舟

御舟    一、御舟*貮船 船頭五人

百姓総家数 一、百姓総家数 六十軒

屋敷数   一、屋敷数 四十軒

諏訪明神宮 一、諏明神宮 壹ヶ所

伊勢宮   一、伊勢宮 壹ヶ所

法泉寺   一、寺 知恩院末寺 壱ヶ所

村ノ廣サ  一、当村東西へ三町四間、南北へ三町八間

         隣郷 東ハ新町 北ハ生塚村

 

1778(安永七年)御裁許状。入会権の争いについて、訴えられた諏訪部、生塚、秋和などの6カ村の言い分が正しいことを評定所が認めた判決書。

1805(文化二年)鳴石〈なるいし〉諏訪部河原にて見出す、鳴石高二尺七寸、上のくびれ目周り三尺二寸、下張周り六尺、穴口一寸

2諏訪部村名の変遷

1583古屋敷から移住

・諏訪辺村1622元和八年 小縣郡石高帳による)

・信濃国小縣郡諏訪部村1647正保四年 正保の郷帳による)

・信濃国小縣郡諏訪部村1702元禄十五年 元禄の郷帳による

・長野常磐城村 鎌原村・生塚村・諏訪部村・西脇村・新町村が合併(明治九年)

・長野上田町 上田町・常磐城村・常入村

長野県上田市諏訪部 1919大正八年市町村施行令で)

 

3史跡

1)諏訪泉神社

元、諏訪部明神社で、旧諏訪部村産土(うぶすな)(かみ)、祭神は(たけ)御名方(みなかたの)(みこと)。文久元年(1861)吉田家より諏訪泉神社と社号(かい)()許可明治六年村社に列した。

(たけ)御名方(みなかたの)(みこと)、大国主神の御子神として、諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。

諏訪泉神社の創建は不詳であるが、1506年「洪水のため、古屋敷から諏訪之郷に移る」とあるので、これ以前からあったものと推定される。また常夜燈には1777年と彫られている。

現在の拝殿は明治二十五年(1902)の建造、改築委員長は丸山平八郎(木屋平)その彫刻は、彫刻師平坂八十(やそ)(まつ)である。

「この彫刻は「瓶割りの図」といい、中国の故事に由来しています。司馬光(10191086)が、友人と遊んでいるとき、友人が過って、瓶に落ちてしまいます。司馬光は機転を利かせ、大事な瓶を割って友人を助け出しました。」

大正四年(1915)六月境内地一九四坪(640㎡)余を拡張して三九二坪(1294㎡)余となっている。

昭和五十六年(1981)頃、祝町線新設のため、境内南側約七十坪(231㎡)道路敷となる。石垣はそのまま埋められている。南の参道は分断され残っている。

この彫刻は「瓶割の図」といい、中国の古事に由来している。司馬光(一〇一九~一〇八六)は友人と遊んでいたとき、友人が過って水瓶に落ちてしまいました。司馬光は機転を利かし、水瓶を割って友人を助け出すことが出来ました。司馬光は中国北宋の学者・政治家、七歳の時の話です。

 

神社拝殿

拝殿正面彫刻「瓶割の図」

 

2)神明宮

本殿東隣りに神明社(伊勢社)がある。

元、東方のパチンコ屋あたりにあり、

明治末期、一村一社の政府方針により、

明治四十三年、諏訪泉神社境内に移された。

 

 

 

神明宮 神殿

 

 

 









3
)境内の石碑

ほらが石

境内北側にある「ほらが石」について、代表的な地誌として知られる江戸末期天保五年(1834)郷土の篤学者 井出道貞(17571842臼田下諏訪社神官)の著「信濃奇勝録」に次のような記述がある。

鳴石

文化二年四月上田の西諏訪部の人々相誘(あひいざな)産土(うぶすな)(しん)の社地を

(ひろむ)るとして千曲河原より石を運び()り水中にて一箇(ひとつ)の奇石を

得たり(その)色青色形三角上鋭下平なりて(志ゆん)(もん)なし中に

(くふ)き所有形胡蘆(ひさご)の如し其の上辺小穴あり法螺(不らかい)(まとふ)がごとし

これを吹かハ孛羅(不らかい)の如く五六丁に聞ゆ里人奇石なりとて社地に

安置し注連を曳きて神の如くす 其頃遠近傳え聞きてしる者

日々小市の如し今は城中お物となれり

ほらが石

 

 

 

 

 

 

 

 

  

・庚申塔

境内西北にある大きい方。

庚申は「十干」の庚(かのえ)と「十二支」の申(さる)の組み合わせで、干支と言う年・月・日の数え方により暦の上で60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜眠らずに過ごし健康長寿を願う信仰。

庚申講を318回続けた記念に建立されることが多い。

この石碑は庚申の年に建立されている。

 

・二十三夜塔

講を組織した人達が集まって月を信仰の対象として精進勤行し飲食を共にして

月の出を待つ、その際供養のしるしとして建てた石碑の一つが二十三夜塔

 

・道祖神

今から70年位前の道祖神祭り、子供たちが境内北側の道祖神の前に小屋をかけ、餅をもってくるようふれて回ります。村人が藁で作った俵にいれた餅を、藁馬に付けて、境内西側の道祖神に2俵供え、前の人が供えた1俵を持ち帰ります。残り1俵は子供分になります。1俵には餅が23個入っていました。

 

・常夜燈

拝殿の右側にある

 

 

二十三夜塔と常夜塔は太郎山の六角柱石(天狗石)で出来ている。この石は緑色凝灰岩で、六角柱状をしている。「指指しゴーロ」の下あたりにあるそうです。


庚申塔 南涯隷作

寛政十二年庚申冬

諏訪部村

二十三夜塔

文化六年春三月(1809

村中

 

 

道祖神

安永五月申

丸山氏

常夜燈

安永六年六月

4津島神社

御穂須々(みほすす)()神社・甲田圭吾宮司の解説による

牛頭天王社とも呼ばれ尾張(おわりの)(くに)(愛知県)津島神社として全国に知られる疫病災難除けの神牛頭(ごず)天王(てんのう)信仰の総本社。全国各地に末社が3000社点在し、諏訪部の島津社もその一つで、いつの時代か、地域の皆さんがこの地に勧請(かんじょう)したもの。

西原新平さんから聞いた話、元は、津島さんは山伏がもって来て天王坂にあったと言う。いつ頃か今の場所に移されたか不明、以前は、拝殿は約2m位の柱の上にあった。

山伏とは、山中で修業する行者のことで、山岳の霊気を吸収しそれらの霊気を人々に授ける存在とされている。神社仏閣に所属する僧や神職がなっていることが多い。

津島神社

 

 

     

5(わた)(りの)(うまや)

曰理驛の塔心楚とイボ神様

延喜年間に、編纂された格式(律令の施行規則)延喜式に国府を結ぶ官道・東山道が信濃の国府(松本)~錦織(四賀村)から保福寺峠を越えて上田盆地に下ってきた

どこで千曲川を渡ったか。長い間、郷土史家の興味の的であった。昭和40年頃、諏訪部地籍にある小さな「ほこら」の付近で、瓦で作った三重の塔の破片が発見された。黒坂周平・県史主任編さん委員によってこの「ほこら」の付近が、日理驛のあったところであろうと推定された、「ほこら」の乗っている石が、塔心楚であったと推定された。

曰理驛の塔芯楚とイボ神様

 

           

延喜式 平安時代(794年桓武天皇が京都に都を移してから鎌倉幕府の成立1185年ころ)の中期に編纂された格式(律令の施行規則)で905年(延喜五年)、醍醐天皇が藤原時平に命じ927年(延長五年)、22年を経てようやく完成。その後も修訂が加えられて40年後967年(康保四年)に施行された。

 

 

延喜式巻第二十八 兵部省

諸国(うまや)

東山道 

信濃国馬 阿智卅疋。(いく)()。賢錐。宮田。深澤。覚志

各十疋。錦織。浦野各十五疋。(わた)()。清水各十疋。

長倉十五疋。麻績。曰理。多古。沼邊(ぬのへ)各五疋         

 傳馬   伊那郡十疋。諏波。筑摩(つかま) 小縣(ちふさかた)。佐久郡各五疋

 

 

6千曲川越しの記録 

千曲川は大河です。昔からこの川を渡ることは大変難儀なことでありました。この上田の西部の地域で、どの地点で、川を渡ったかを、年代順に調べて見ました。

 

1)平安時代

延喜式には、官道、東山道は浦野驛と曰理驛との間で、千曲川を渡ったと記述されています。

 

2江戸時代

江戸時代には北国街道から分岐した松本街道(別所街道)が千曲川を渡り、別所、松本に通じていた。

田中家文書、指出帳、原町問屋日記などから江戸時代の状況を知ることができる。

○田中家文書にみる諏訪部川除(かわよけ)絵図面。当時のおおよその川の様子を知ることができる。

川除とは、堤防など、氾濫防止施設を作ること。

 

○原町問屋日記(滝沢家文書)

寛文六年(1666年)に橋が落ちた時の駄賃についての記述

 

すは邊橋落申し候に付き商人、荷物壱駄に付き

十文づつ増銭毎々取り申し候のこと

○原町問屋日記、元禄七年(1694年)

に船賃についての記述

 

諏訪部船賃乗掛壱駄に付き拾弐文人一人に付き四文づつ

高水の節は右の一倍(二倍のこと)御定めより成り候

 

 

○原町問屋日記、寶永三年(1706年)十一月十八日には、

船頭給についての記述

 

渡守給籾取集置可申様右衛門様より仰聞候に付き毎々船頭共取集申候

千曲川渡守給籾例年取立罷覚

一、籾弐石四斗四升

一、籾三斗四升

一、籾六斗四升

  〆て五石四斗九升

   右之通毎年町々より出し来候

 

 

○原町問屋日記(滝沢家文書)

寛文六年(1666年)に橋が落ちた時の駄賃についての記述

 

すは邊橋落申し候に付き商人、荷物壱駄に付き

十文づつ増銭毎々取り申し候のこと

 

○原町問屋日記(滝沢家文書)

寛文六年(1666年)に橋が落ちた時の駄賃についての記述

 

すは邊橋落申し候に付き商人、荷物壱駄に付き

十文づつ増銭毎々取り申し候のこと

 

○原町問屋日記(滝沢家文書)

寛文六年(1666年)に橋が落ちた時の駄賃についての記述

 

すは邊橋落申し候に付き商人、荷物壱駄に付き

十文づつ増銭毎々取り申し候のこと

 

○原町問屋日記(滝沢家文書)

寛文六年(1666年)に橋が落ちた時の駄賃についての記述

 

すは邊橋落申し候に付き商人、荷物壱駄に付き

十文づつ増銭毎々取り申し候のこと

 

○原町問屋日記、元禄七年(1694年)

に船賃についての記述

 

諏訪部船賃乗掛壱駄に付き拾弐文人一人に付き四文づつ

高水の節は右の一倍(二倍のこと)御定めより成り候

 

○原町問屋日記、寶永三年(1706年)十一月十八日には、

船頭給についての記述

 

渡守給籾取集置可申様右衛門様より仰聞候に付き毎々船頭共取集申候

千曲川渡守給籾例年取立罷覚

一、籾弐石四斗四升

一、籾三斗四升

一、籾六斗四升

  〆て五石四斗九升

   右之通毎年町々より出し来候

 

○諏訪部村指出帳 寶永三年(1706年)

上田藩主が仙石氏から、松平氏に代わったときに、指出されたもの、千曲川に関する箇所には、次のような記述がある。川除、橋の数、橋の大きさ、及び橋の落ちたときの、舟の大きさ、数、船頭の人数について記述されている

 

 

 

寶永三年 信州小県郡諏訪部村指出帳

一、川除 五ヶ所

筑摩川 上は常田村 川下は秋和村ニ、当村より

南の方へ流れ申す。

一、筑摩川橋 三橋 長サ二十二間 横一間

右三橋は御地頭様より御普請遊ばされ候、人足

は入用次第に仰せ付けられ、塩尻組・小泉組・浦

野組・塩田組・原町・海野町より出し申し候。

橋木御林より出し申し候節は田中組・洗馬組・国分

寺組よりも出し申し候。

一、当村並びに西脇・新町・生塚・秋和五ヶ村橋方御用

相達候に付、橋御普請の節、五ヶ村人役御免にて人足

出し申さず候。

諏訪部橋落ち申し候節は諏訪部より川向中之

条へ船渡にて候

御舟 弐舟 筑摩川渡

大舟 長サ 九間三尺 横  一間一尺

小舟 長サ 七間二尺 横  一間

 

○原町問屋日記 寶永六年(1709年)

船頭給に関する箇所には次のような記述

 

寶永六年十一月

諏訪部船頭給申し越罷覚

一籾九斗四升弐合 海野町 横町

壱割増として 一石三斗六合

米にして 六斗二升一合六勺

右の通り御渡候    

 

○原町問屋日記 

寛延三年(1750年)

諏訪部船頭給覚に、三町の船頭給代金にて渡したと記述されている

 

寛延三年 諏訪部船頭給御尋付

諏訪部船頭給覚

一、麦 壱石三斗六合     海野町

一、麦 壱石七斗三升弐合五勺 原町

一、麦 三斗八升九合     鍛治町

右は冬中相場を以代金にて相渡申候

右の通御座候 以上

丑七月十六日 庄屋当番年寄名

 

○原町問屋日記 安永四年(1775年)十月十六日

橋の普請の記述

 

一、諏訪部橋御普請 九月二十一日より十月

六日迄に相済み同七日より往来通申候

 

○原町問屋日記 天保十一年(1840年)

渡舟の運行についての記述

 

問屋日記 原町番 天保十一年五月朔日

一諏訪部船留申来候

一諏訪部船留四ツ時より通路致し候段申候

 

明治・大正時代

明治四年七月廃藩、上田県となり十一月長野管轄となる。政府より、明治四年中之条、諏訪部間の船場を船橋とする。明治五年五月より二十年四月までの十五年間の船賃を定める。船場の船賃の徴収が許可された。明治二十八年開通した上田橋のため、船橋の採算が取れなくなり、さらに、明治二十九年船橋の流失を機に廃止となった。(信濃国小県郡年表・上野尚志)大正時代繰り舟の渡しがあったが何時しか廃止になった。

  

3昭和時代以降

・古舟橋(木造)の完成と流失

昭和十四年六月完成。長い方の橋は右岸の、老人福祉センターの東の松本街道から、左岸は中之条の地籍まで、

橋は、写真のように、丸太を組み合わせたもので、貧弱であった。自動車は通れなかった。この橋を渡ったことが一度ある。

昭和十六年の台風で大部分は流失した。流失後、一時渡し舟があったが上田橋が出来ていたのと、戦争が激しくなったので、廃止となった。

木橋流失後、渡し舟が復活した、両岸に張られた鉄線に、繋がれ、鉄線を手繰りながら舟を進めていたが、戦争中及び戦後は何もなかった。

明治・大正時代

明治四年七月廃藩、上田県となり十一月長野管轄となる。政府より、明治四年中之条、諏訪部間の船場を船橋とする。明治五年五月より二十年四月までの十五年間の船賃を定める。船場の船賃の徴収が許可された。明治二十八年開通した上田橋のため、船橋の採算が取れなくなり、さらに、明治二十九年船橋の流失を機に廃止となった。(信濃国小県郡年表・上野尚志)大正時代繰り舟の渡しがあったが何時しか廃止になった。

  

3昭和時代以降

・古舟橋(木造)の完成と流失

昭和十四年六月完成。長い方の橋は右岸の、老人福祉センターの東の松本街道から、左岸は中之条の地籍まで、

橋は、写真のように、丸太を組み合わせたもので、貧弱であった。自動車は通れなかった。この橋を渡ったことが一度ある。

昭和十六年の台風で大部分は流失した。流失後、一時渡し舟があったが上田橋が出来ていたのと、戦争が激しくなったので、廃止となった。

木橋流失後、渡し舟が復活した、両岸に張られた鉄線に、繋がれ、鉄線を手繰りながら舟を進めていたが、戦争中及び戦後は何もなかった。

木造橋(上田・小県昭和史より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・古舟橋(鉄筋)の開通

当日の模様を伝える新聞記事は「祝賀に四千人の市民が参加した。今から四十年前の昭和四十九年五月十二日(1974年)現古舟橋が完成、五月晴れのもと、盛大に渡り初めが行はれた。昭和五十二年の信濃毎日新聞の記事では、「昭和二十八年、北岸の諏訪部と南岸の中之条の住民が古舟橋建設期成同盟を組織して二十年の歳月が流れていた。ようやく橋を踏みしめることのできた地もと住民のきもちはそれこそ踊りだしたいほどだったに違いない。」と報じている。画像は、当日の渡り初めの様子(昭和495月)です。

テープカット知事・市長・他)

親子三代渡り初め

常田獅子連の渡り初め

橋上の賑わい

 

 

・現在の古舟橋

右岸堤防上より

右岸正面

 

 

これからの古舟橋

☆人に優しい橋、歩いて楽しく渡れる橋に☆