古舟橋(木造橋)の完成と流失、渡し舟

  昭和14年6月完成。場所は、右岸は、老人福祉センターの東の松本街道から、上流側の堤防の先端あたりに、
  短い橋が長い橋   の反対側から下流側の堤防に、2本の橋で構成されていた。
  橋は、写真の様な木造で、貧弱なものであった。この橋を渡った記憶が一度ある。
  昭和16年7月のの台風で大部分は流失した。流失後は、一時、渡し舟があったが、上田橋が出来ていた事と、
  戦争が始まったことで、いつしか廃止となった。
  渡し舟は小型で、両岸に、張られた鉄線に輪で繋がれ、船頭が鉄線ををたぐり寄せながら、舟を進めていた。


 古舟橋(鉄筋)の開通


 今から34年前の、昭和49年5月12日(1974)古舟橋が完成、五月晴れのもと、盛大に渡り初めが
 行われた。昭和52年の信濃毎日新聞の記事では、
 昭和28年北岸の上田市諏訪部と南岸の川西村中之条の住民が「古舟橋建設期成同盟会」を
 組織して20年の歳月が流れていた。ようやく橋を踏みしめることのできた地元住民の気持ちは
 それこそ踊りだしたいほどだったに違いない。当時(昭和49年)を伝える新聞記事は、
 祝賀に、
4000人の市民が 参加した。と報じている
  (昭和52年8月14日の信濃毎日新聞記事)
    
  

現在の古舟橋の表情 平成20年(2008年)7月

千曲川は大河です。昔、この川を渡ることは、大変、難儀なことでした。
上田地域で、平安時代から現在まで、人々は、千曲川をどの様にして渡った
のでしょうか。文書などを、調べて、現在まで繋がりを、辿ってみました。

作成2008年10月


  


物語の地理的関係

古舟橋は1日にしてならず




平安時代の記録

平安時代は、794年桓武天皇が京に都を移してから1185年鎌倉幕府の成立まで。
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行規則)967年施行された延喜式には、
官道、東山道は浦野駅(うまや)と臼理の駅(わたりのうまや)との間で、千曲川を渡った
と記述されています。
臼理の駅は、常磐城3丁目(信州小県郡諏訪部村)にある地元で「イボ神様」といわれている石が
駅の芯楚であろうと、推定されています。


延喜式巻第二十八 兵部省
東山道
信濃国駅馬
錦織。浦野各十五疋。臼理。清水各十疋。

江戸時代
江戸時代には北国街道から分岐した松本街道が千曲川を横ぎり、浦野宿から、
松本に達していた。差出帳や問屋日記によって、その時代の凡その様子がわかる

ここに載せた文書は、博物館や、図書館に保管されている、原本からコピーしました
原町問屋日記(滝沢家文書) 寛文六年(1666年)に は、橋が落ち、船賃の記述がある。

原町問屋日記 元録七年(1694年)には、船賃について、記述がある。

  諏訪部船賃乗掛駄荷一駄ニ付拾弐文人一人に付
  四文づつ高水の節は右の一倍
(2倍)の御定めより成り候

原町問屋日記 寶永三年(1706)十一月十八日 には、船頭給について、次のように、記述がある。

渡守給籾取集置可申様右衛門より仰聞候に付毎々船頭共取集申候 
千曲川渡守給籾例年取立罷覚
一、籾弐石四斗四升
一、籾三斗四升
一、籾六斗四升
  〆五石四斗九升
 右之通毎年町々より出し来候


諏訪部村差出帳  寶永三年(1706年)
 
上田藩主が仙石氏から松平氏に代わったときに、差出されたもの。
千曲川関連では、次のような記述がある。川除、橋の数、橋の大きさ、
橋が落ちたときの舟の大きさ、数、船頭の人数が差出されている。

寶永三年  信州小県郡諏訪部村差出帳
一、川除 五ケ所
  筑摩川 上は常田村 川下は秋和村ニ、.当村より南の方へ流れ申す。
一、筑摩川橋 三橋 長サ二十二間 横一間
  右三橋は御地頭より御普請遊ばされ候、人足は入用次第に御仰付られ、塩尻組・小泉組・浦野組
   塩田組・原町・海野町より出し申候。橋木御林より出し申し候節は田中組・洗馬組・国分寺組
  よりも出し申し候。
一、当村並びに西脇・新町・生塚・秋和五ケ村は橋方御用相達候に付、橋普請の節、五ケ村人役御免
  にて人足出し申さず候。

 諏訪部橋落ち申し節は諏訪部より川向中之条へ船渡にて候
  御舟 弐舟 筑摩川渡
  大舟 長サ 九間三尺(17.1m)  横一間一尺(2.1m)
  小舟 長サ 七間二尺五寸(13.4m)  横一間(1.8m)
 右の御舟破損の節は御地頭様より御普請遊ばされ候。
  船頭 五人
(只今は四人御座候)

中之条村差出帳 寶永三年(1706年)
 
中之条村の差出帳の千曲川関連では、次のような記述がある。
諏訪部が落ちたときは船渡を仰せ付けられていた。
大橋つなぎ綱等の用具の調達について、差出されている

寶永三年五月 信州小県郡中之条村指出帳
一、諏訪部橋落申候節は、船渡仰せ付られ候其の節御船上ヶ下ヶ綱・取綱はり人足出し申候に付、当村之  
   義は、橋御普請橋木引人足出し不申筈に御座候
一、諏訪部橋場、水増之節は人馬瀬越にて引越申候えば水に応し代銭取申候  

一、諏訪部中之条大橋つなぎ綱並びに船くり綱・みこ縄・わら縄御入用之節、小泉組、浦野組、塩田組   
   より御入用次第申受請候
一、船渡之節、さお木、上室賀山御林にて年々申請候
一、船くり綱・立柱ひかえき入用之節、御堀土手之内にて、柳・さへくハちにて申受候  

原町問屋日記 寶永六年(1709年)十一月
 諏訪部船頭給を申し越し罷り覚で、渡した米の量についての記述がある。

  寶永六年十一月
  諏訪部船頭給申し越罷り覚
一、籾 九斗四升弐合 海野町 横町
  壱わり増として一石三斗六合
  米にして六斗二升一合六勺
  右之通御渡候

平成20年度の出荷価格を12,000/60kgとすると、6斗2升は約18,600円くらいか。

原町問屋日記 寛延三年(1750年)

 
船頭給申し越覚で、三町の船頭給を代金を以って渡したと記述されている。

寛延三年(1750年)諏訪部船頭給御尋付左の通書付
      諏訪部船頭給覚
一、麦 壱石三斗六合      海野町
一、麦 壱石七斗三升弐合五勺  原町
一、麦 三斗八升九合      鍛治町

 右は冬中相場を以代金にて相渡申候
 右の通御座候以上

 牛七月十六日 庄屋当番年寄名

原町問屋日記 安永四年(1775)十月六日 橋の普請の記述がある

一、諏訪部橋御普請 九月二十一日より十月六日迄に相済
  同七日より往来通申候

 原町問屋日記 享和二年二月朔日(1802年)

諏訪部大橋普請の人足の件の処理の様子を、両町年寄り相談し、次の通り認め差出したと記述されている。
「諏訪部大橋普請の節の、四組(原町・海野町・鍛治町・紺屋町)より差出す人足の数と船頭給について、

鍛治町・紺屋町は普請人足は是まで差し出していない。船頭給は当町と同様差出て来ているといえども、
人足とても、差出すべきと存じている。
依って当町と同様に両町よりも軒前に人足を差し出し候えば、当町の出す人足減にも成る
人足30人
も差出す様、仰せ付けられる様、お内意奉り伺い候。」


一、諏訪部人足一件、始末様子書付出し可申候 御年寄中様へ御伺可候処の御趣に御座候
  両町年寄相談左の通り認め差出候。

  諏訪部大橋御普請有の節は四組より差出罷り人足の村人分の一、町方より差上申候、右人足の儀は
  町方にては御高も御座無く義に付、本家、長屋、借家
(中略)にて相勤め来、小前難儀仕候へとも前出
  申上候通、御高も御座無宿役御伝馬
(公用の連絡用馬)に拘り罷り儀にも御座無につき人足減じ候取計も
  御座無候。

  鍛治町・紺屋町の義、御普請人足是まで差出申さず。 船頭給は当町と仝様に差出来候えども、
  人足迚も
(とても)差出可訳合にも相当可申ばと奉存候。

  依って当町と仝様右両町よりも軒前に人足差出呉候へば、小前出人足減にも相成申候に付、
  仰付られ候様奉願上たく、去春中御内意奉伺候処,容易御差図は難く相成。
(中略)

   前出申上候 通 右両町迚も船頭給差出候義
候へバ御普請人足不差出訳合御座有間敷候
  奉存候何分御憐愍御賢察被成なされ、人足三拾人も差出候様被為仰付、被□置候様奉願上度、
  御内意奉伺候以上
 

明治時代大正時代

明治4年7月廃藩、上田縣となり11月に長野管轄となる。
政府より、

明治4年、中之条、諏訪部間の船場を船橋とする。
明治5年5月より20年4月迄十五年間の船賃を定め、船橋の船賃の徴収が許された。
明治28年開通した上田橋のため、舟橋の採算が取れなくなり、さらに、明治29年舟橋の流失を
機に廃止となった。(信濃国小県郡年表・上野尚志)
大正時代、繰舟の渡しがあったがいつしか廃止になった。

原町問屋日記 享和三年(1803年) 
諏訪部大橋普請の節の、四組(原町、海野町、鍛治町、紺屋町)より差出す人足についての町年寄りの
願上口上書についての記述がある。内容は前記問屋日記とほぼ同じ。

           奉願口上書
一、諏訪部大橋御普請之節は四組より差出候人足の村分の一町方より差出申候。
 右人足の儀は町方には御高も無く御座に付本家、裏家 後家、やもめにて相勤め来。
 小前至
て難渋仕候へ共、人足減じ取計方も無御座候。然る処鍛治町紺屋町の儀御普請人足
 差し出申さず。

 船頭給は当町仝様差出来候へ共、人足とても差出可き訳合に相当すべく申さば奉存候、左候えば
 小前ども人足減にも相成難渋候、小前御救の儀に御座候間、当町と仝様、鍛治町紺屋町共々
 鎰
(かぎ)役人足差出候様仰付為さられ候様奉願候、此段聞為されられ奉願上候(以下略)
                                
町年寄


原町問屋日記 天保十一年(1840年)

渡し舟の運行についての記述がある。

  問屋日記 原町番
  天保十一年五月朔日
一、諏訪部船留申来候
一、諏訪部船留四ツ時より通路致し候段申来候


橋の座

中之条側の短い橋の橋座。本流の反対側に
架かっていた

橋の架かっていたところ

橋の架かっていた場所の現在の様子

初代古舟橋(昭和14年)

渡り初めに集まった人々
渡り初めの開始を待つ大勢の人々
右岸(常磐3丁目)
テープカットの前
テープカット.,,西沢知事も駆けつけ
てきました。 手前が市長、一番左が県議。

常田獅子役員

  常田獅子の役員の一団の渡り初め

親子三代の渡り初め

橋上の様子

 歩行者天国の様な橋の上、自分の足で歩いて川を渡るというのが昔からの夢であった。五月晴れの一日であった。

古舟橋全景

右岸から見たところ

古舟橋全景

左岸下流から 美しい橋である

橋正面

正面より、車は多いが、人の姿は見
えない。
転落注意の立て札が見える.。
ちょっと珍しい光景。

千曲川と古舟橋

水量豊かな千曲川と橋の遠景
すわ邊橋落ち申し候に付き、商人荷物壱駄に付十文づつ増銭毎々
取り申し候こと
橋の安全を祈念したあとの、記念
撮影上田・小県の昭和史より
橋の安全を祈念して親子三代の渡り初め


 

         これからの古舟橋 
          
人に優しい橋:歩いて、楽しく、渡れる橋に

藩の命令とはいえ、江戸時代の人たちの苦労は並みたいていのことでは、   
 なかった。藩・民ともに、交通の確保に努めてきたのであった。

★今、この橋をみると狭い歩道、低い欄干、危険な歩道の取り付け部分など
 危険なところが多く見られる。


★歩行者、体の不自由な人、高齢者、車椅子の人などが安心して
 渡れような橋に早急に、改修する必要があると思う。

★とりあえず、橋の上は、車道を3車線から2車線にし、
 自転車の通行区分を歩道外に、確保する。


★渡り初め(昭和
495月)の日の喜びをもう一度。
















この物語の舞台は、今の古舟橋を
中心とした、下の図に示すような地域です。




古 舟 橋 物 語